絆

 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
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「おじさん、もう終りましょう」
  掛けられた声に、仁平は仕事の手を止め、岸の方を振り返った。防風林に沈む直前の夕陽が、長く尾を引き、大地にもその影を落として、日焼けした女の顔を紅く染めていた。頭に被った白い手拭いが、よく似合っている。細面の整った顔である。仁平は眩しい眼差しで、鍬を肩に担いで笑っている三十代の千代を見つめた。
「やぁ、今お帰りかい。わしも向こうまで行ったら引き上げるがね」
  顎で畝のすその方をしゃくり、彼は会釈の代わりに右手を挙げた。中途半端な終り方がいやで、耕している畝を遣り終えなければ気がすまない性格が、彼女の誘いをいつも断ってしまう。
猫 「じゃ、お先に」
  頭を下げる彼女は、一匹の猫をともなっていた。
  細い岸の上を歩き始めると、体が大きく左右に揺れた。小児麻痺で長短の生じた歩き方は、思わず目を背けるほどだ。千代は衝撃を少しでもやわらげるように、担いだ鍬でうまくバランスをとっている。
  彼女の前を小走りに駆けながら、猫は暫く行くと立ち止まった。後ろを振り返り、一メートルほどに近づいた千代を見届けると、再び駆け出した。その繰り返しをしながら帰路を辿って行く。だが、畑に来るときは、猫は常に千代の後ろを歩いていた。
(まるで犬や……)
  堤防の斜面にさしかかると、振り返る回数が多くなったのが、遠目にもわかった。
「ちょびは私以外には、おじさんだけなのよ」
  頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細め喉をならすが、猫は全く他の人には懐かなかった。家族にさえ、二メートルほどの距離をとるらしい。
「兄がそれ以上近づくと、この子の方から遠ざかって行くの」
  千代は寂しく笑っていた。他人を寄せ付けない性格を、山猫のようだとも、飼い主に似ているとも言った。
  千代には友達がいなかった。幼小の頃より、苛めの的になったためか、人の輪の中に入って行くことを避けているようにも見受けられた。その彼女が、仁平には気安く声をかけてくれる。それが彼には何よりも嬉しい。赤ん坊の頃より、仁平は絶えず身近にいた他人であったろう。お互いの畑が隣どうしで、もう故人となってしまった彼女の両親とは、岸に座ってよく話をしたものだった。
  仕事を終えた時、日はとっぷりと暮れていた。彼は右手で春先から痛む腰を叩きながら空を仰いだ。群青色に移ろいゆく夜空を背景に、天の川が広大なスケールで拡がっている。見慣れた防風林の悠然とした影が、貧弱にさえ感じられる。三方を山々に囲まれた空間には、梅雨の季節だというのに、雲ひとつない。仁平は疲労感も忘れ、吸い込まれそうな錯覚に陥りながら、しばらく見惚れていた。松林の上空をさっと流れ星が走った。
  あくる日、千代は畑に姿を見せなかった。彼女の畑はこの近辺にしかない。田にいるとしても、田植えをしたばかりの田圃は、水ひき以外しばらく用はない。
(彼女の畑はまだ他にもあったかな……)
  思い当たらなかった。千代の畑は、仁平の畑を囲むかたちで、二反あり、狭い岸によって、それぞれ三つに区切られている。人との交際を嫌がるわりには、千代は家の中よりも、外にいることを好む人だった。兄夫婦とあまりうまくいっていないせいだろうと思いながらも、彼女の傍で働けることは喜びだった。
  何の予告もないまま、昨日元気な姿で帰って行っただけに、寝込んでいるとは思えなかった。彼は何処となく寂しい気持ちで仕事をしながら、あの人は昼からかも知れないと思いなおした。
  夜遅くから降りだした雨は、翌日は激しい雨に変わった。仁平は麦飯にたくわんだけの遅い朝食を終えると、壁に凭れ生気のない眼差しで庭を眺めた。十時を回っているのに、ぶ厚い雲に覆われて、夕方のように暗い。風はないが、大粒の雨が地面に跳ね返っていた。これだけ降られると外にも出掛けられない。家の中で出来る仕事は、縄をなうぐらいだが、縄は早急に用いるものではなかった。女ならありがちな針仕事など、六十歳の仁平には考えられなかった。何もしない胸中は、物足りなさに満たされていた。この齢になってと思うが、千代に会えない時に感じるけだるさだった。
  雨は夕方には小止みとなった。仁平は九時を過ぎてから買物に出掛けた。月明かりのない前方に外灯が靄にけぶって、そのまわりだけが白くかすんでいた。傘が要らないほどだった。村にただ一軒ある雑貨屋は十時過ぎまでやっていた。
(何かあったな……)
  裸電球の灯る十坪ほどの店内に足を踏み入れて、仁平は違和感を抱いた。こんな遅くに三人の先客がいたが、買物をしている者は一人もいない。皆ひとところに集まって、主までが仁平に気づかなかった。皿の上の残り少ない鯵の干物を手にして、巾着袋の紐をほどきながら近づくと、 「ああ」と言って、初めて主は仁平の顔を見た。
「何かあったんかいの」
「いやのう、あんさん、千代さんが戻らんと言うのよ」
「戻らん、どういうことや」
  巾着袋から金を出しながら、丸椅子に腰を下ろした。いい話ではないことが、雰囲気でも分かるが、千代と聞いて目の色が変わった。
「おとといの夜から家を出ていったまま、帰らんのよ」
  坊主頭が口を添えた。千代の近所に住む男だった。
「どっかへ行ったんかい」
  うろたえながらも、よくこんな愚かな質問ができたものだ。
「いや、まだ分からん。兄貴の奴、喧嘩したとは一言も言ってなかったがの。しかし、あいつは薄情な奴やからの。何でも東山へ向かったらしいわ。ただごとじゃないわと、わしら今話していたとこや」
  東山は三百メートルほどの低い山である。昨夜からの雨が思い返された。
(千代が帰らない……)
  電球の光に変化があったわけではないのに、視界が急に暗くなった。過去、無言で家を出た二人の自殺者が思い返された。忍耐強い人間が家を出る覚悟を、仁平はあのとき胸に留めたはずだった。
  傍目を憚って必死で堪えるが、笑顔で帰って行ったあの夕方の景色が、思い出のように色濃く迫ってきた。
「明日、東山を捜すことになったんやけど、あんたも行くよな」
  眼鏡の奥から、主人の鋭い視線に射すくめられた。仁平は小刻みに震える体を堪えながら、「ああ」と縋るような掠れ声を洩らした。
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