絆

 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
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  仁平は膝をかきむしった。体を起こして見ると、蚊に刺されたあとが膨れて紅くなっている。それからずり落ちた夏蒲団を胸の上まで引きずりあげた。朝の冷気はステテコ一枚の姿にはさすがに肌寒く、障子の隙間から流れ込んでくる空気に秋の気配がした。
  脇でちょびが寝入っていた。猫は毛皮をまとっているから丁度いいのだろう。起こすのが躊躇われたが、右手で脇腹をゆるく撫でおろした。猫はそれでも目を覚まさなかった。ちょびを預かっていることをいつまでも言わないわけにはいくまい。彼は朝のうちに千代の家を訪ねてみる気になった。
  千代の家は村はずれにあり、一・五キロ程の距離だった。畑に行く道と同じ堤防の上を、ちょびは行き先も知らないまま、仁平の後ろに着いてきた。畑へ下って行く坂道を通り過ぎ、木造の橋を渡ると、古い家だが、新しい造りの千代の家が見えてきた。家の周りの塀に遅咲きの朝顔が無造作にからまっていた。
  田植えをした頃とは違い、稲は収穫を間近にひかえていた。千代がいた頃と様変わりしていても、それは毎年繰り返されることである。彼女と一緒に歩いた道は、ちょびには懐かしい景色に違いなかった。ここまで来れば猫にも行きさきは見当つくだろう。先に立って案内するちょびを想像していた。
「ちょび、おまえの家だよ」
  手で示しながら、後ろを振り返った。それから、腰のバンドに垂らした手拭いで額と首を拭った。
「さあ、お行き」
  優しく手招きした。だがちょびは仁平が歩みを止めると、同じように立ち止まった。猫の視線は低い。育ち切った稲が視界を遮って、判断がつかないのかも知れない。彼はちょびを抱き上げてみた。
  急に高くなった仁平の胸で、ちょびは頭をキョロつかせた。何処となく怯えを含んだ仕草が、知らない土地に足を踏み入れたようにも見える。あれから三か月が経過していた。猫にとっては長過ぎたのかも知れない。脅えたふうに、仕事着に顔を埋める柔らかい毛並みの感触に、仁平は故郷をもぎとってしまったような罪悪感を抱いた。
  門をくぐり庭の中ほどまで来て、仁平は再び後ろを振り返った。ちょびは椿の木の下にもぐりこむところだった。自分の家に戻りながら、借りて来た猫が当てはまる振る舞いである。夏の夜、仁平の家を抜け出していた行動はやはり恋だったのだろうか。
「あの猫、まだ生きていたのですか」
  対応に出た喬の妻の化粧を落とした顔には、薄いそばかすが驚くほど散っていた。腫れぼったい瞼が、だらしない印象を与えた。都会的な顔立ちも、素顔は農家の嫁と少しも変わらなかった。それにしても何という言い方だろう。懐かない猫を消すには、餌を絶つのは賢明な手段かもしれない。
「いえね、千代さんが出て行ってから、すぐに居なくなったものですから、猫は死体を見せないというでしょう」
  後から言い添えたのは、仁平の顔色を読んでのことだろう。
「自分の家を忘れてしまったようで……、わしがお預かりしてもよろしいですかの」
「ええ、ご迷惑でなければそうして下さい」
  笑うと笑くぼが一方の頬に深くくいこんだ。ああ、この人は笑顔だけはいい。仁平は再び流れでた汗を拭った。それから向きを変えて庭の方を見た。
「ちょびも一緒に来たんですよ」
「猫?  ここにですか」
  驚いた風だったが、仁平が先立って玄関の外に出ると、女房も下駄をつっかけた。
「何処にいるのですか?」
「あの、木の下です。しかし、猫にとっての三か月は長かったようですの。すっかり忘れてしまったみたいですわ。あれだけ千代さんに懐いて、一緒に暮らした場所やのに……」
絆   太陽はかなりの高さまで昇っていた。垣根の影は短く、椿の深緑の上に反射する光が眩しかった。
「わしは、ここに来るまでは喜ぶちょびの姿を想像していましたのや。千代さんに逢えると猫は考えて当たり前ですわな。わしの家に来た頃は、夜抜け出していなくなっていたことがよくありましたのや。朝方戻って来たちょびを見て、体の汚れようから、畑の中を歩いていると思っていました。てっきり、此方に来ているんやないかと思っていたんですが、どうも違ったようですの。あの頃ちょびはどこに行っていたのでしょうかの」
  一瞬、女房がうろたえた表情をしたと思ったのは、仁平の気のせいであったろうか。
「今でも出掛けるのですの」
「いいえ、この頃は止まりましたわ。と言っても梅雨も明けて大地も乾燥していますからの、わしの寝ている間に出て戻れば、分からないわけですわ。でも、どうして、猫は千代さんがここに戻らないことを知っていたのやろうの」
「…………」
  口を閉ざしてしまった女房の頬が、ぴくっと痙攣する。
  仁平は、椿のそばまで来て腰をかがめた。誘うように両手を前に突き出し、コッコッと舌を鳴らした。
「ちょび、おいで」、それから、玄関の前に突っ立ったままで、此方を見ている女房に声をかけた。「奥さん、これが最後やと思いますので、頭でも撫でてやってくれませんか」   立ち止まっていた彼女が歩き始めると、木の下から低い唸り声が洩れてきた。喬の妻が近付くにしたがって、大きくなってくる。
(これは一体どういうことなのか……)
  危険を感じたのか、彼女が立ち止った。
「奥さん、ちょびは千代さんと暮らしたこの場所も、あなたも忘れてはいなかったようですの」
  心の動揺が上ずった声に表れている。千代の捜索で初めて此処に来た日のことが思い出されていた。あの時、ちょびは屋根の上から喬に牙をむいて、人々を驚かせたものだった。
  心臓が飛び出しそうに、胸が波打ってきた。仁平は椿の木を見つめたままだった。背後に居る喬の妻は、どういう表情をしていただろう。振り仰いで、彼女の様子を見たいと思ったが、体が意のままにならなかった。
  背後で下駄の足音がした。彼女が少しずつ遠ざかって行く。
「すみませんでした」
  仁平は背を向けたまま、玄関の方へ戻って行く女房に謝意を述べた。
  ガラガラと戸の閉まる音がした。しばらくするとちょびが姿を現した。尻尾が二倍にも膨らんでいる。抱き上げると、体がこわばり、筋肉が引きつっていた。繰り返し撫で続けた。仁平の腕の中で、体は少しずつほぐれていった。
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