絆

 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
・≪0≫・ ・≪1≫・ ・≪2≫・ ・≪3≫・ ・≪4≫・ ・≪5≫・ ・≪6≫・ ・≪7≫・
 

 

  収穫期がやって来た。この時期と田植えは、小・中学校も休みになる。猫の手も借りたい親の希望である。農業を糧とする村では、反対する教師など一人もいない。
  仁平は太陽の昇らないうちから田圃に出た。家族の居ない彼は、手つだってくれる者のいないまま、その分自分でこなさなければならなかった。皆と同じように刈り終えなければ、後に続く共同作業に支障をきたすことになる。若い頃は収穫の喜びが大きかっただけに、激しい労働も決して苦痛ではなかった。年々その作業が辛いと思うようになった。綿のように疲れた体を引きずり、月明かりの道を歩いて帰りながら、来し方、行く末を思うと、仁平はいつになく侘しい気持ちになった。六十歳を超えた我が身に、先の希望が見えなかった。若さ溢れた上半身をさらけ出して、農作業に打ち込んでいた遠い過去も、振り返れば懐かしく身近に感じられた。
(人の世は何と短いのだろう)
  仁平はこれより先、老い行くだけの歳月を推し量ってみた。激しい野良仕事は、後十年が限界に思えた。身寄りのいない自分に、どんな老後が待っているのだろう。人様の世話になりながら生きながらえるぐらいなら、今死んでも悔いはなかった。
「やぁ、精が出ますの」
  刈入れの最後の日だった。大きな声は道の方から聞こえた。振り返ると、警察官の小野が自転車を止めている。光線の加減か、家に訪ねて来た時よりも笑顔が弾んでいる。
「あと一時間ぐらいで終りますの。一人で大変でしたでしょう」
  跨いでいた自転車を降りて、立てかけたところを見ると、どうやら通りすがりに声をかけたのとは違うらしい。彼の背に言い放った台詞が鮮やかに蘇ってきた。
(この一か月の間に、千代の為に自分は一体何をしたのだろう)
  彼女の家で見たちょびの態度を証拠としてあげるには、現実が伴わなかった。仁平は手にした鎌を地面に置くと岸の方へと歩いて行った。
「猫もご一緒で……」
  小野は田圃の脇の方に視線を移していた。杭で囲み、筵をかぶせただけの日除けの中に寝そべっているちょびを、目敏く見つけたらしかった。
  仁平は、先に岸に座った小野の傍らに腰を下ろすと、麦わら帽子をとり汗を拭った。暑さよりも屈辱を感じた。
「千代さんの手掛かりが何もなくて、すまんことです」
  犯人ならばきっといつかは尻尾を出す、焦らないことだと言われた言葉が、心の奥の方でぶり返す。無意識のうちに頭を垂れていた。
「いや、あの話はもういいんです」
「えっ?」
  小野は白い歯を出して笑っていた。仁平は戸惑いを覚えた。警察は何を嗅ぎつけたのか。小野の言い淀んだ数秒の空白に焦りを感じた。
「実は、千代さんから喬さんのもとへ手紙がきたのです」
「手紙?」
「そうです。私も見せてもらいました。住所は書かれてなかったのですが、消印は東京でした。もう少し慣れたら報せるということで、無言で出たことを詫びていました」
  何ということだろう。自分の憶測とはかけ離れた所で千代が生きていた。しかし、何故かこの時、仁平は物体の壊れる音を聞いた。コンクリートの上に落ちて砕け散る瀬戸物のようにも思えた。本当に千代が書いたものかと、尋ねる声が震えるのはどういうことか。愛しい人の生に抵抗する自分が分からない。
「何か証拠でも」
「指紋です。封筒にはそれらしいものはなかったのですが、便箋の方には彼女の指紋がついていました。喬さんも、自分が疑われていると思っていたのでしょうな。千代さんが愛用していた櫛も持ってきて、調べてほしいと言いましたよ」
  先ほど刈ったばかりの切株から、液体がにじみ出ていた。稲はやがては蘖(ひこばえ)という新芽を出し、実らない穂をかたちづくる。生きるとはこういうことだろう。
「まあ、よかったじゃないですか。てっきり、私もあんたと同じように考えていたんですよ。でも、それを口に出すことはできんかった。しかし、彼女も人騒がせですのう。置手紙ぐらいしてもよかったでしょうにの……」
  体から力が抜けて行くのが分かった。物体の壊れる音は、失った愛への照応であったろうか。小野が続けて何か言ったが、もう耳には入ってこなかった。仕事の合間に千代と二人で語り合った過去が、急速に色あせていき、仁平は体を素通りして吹く風を感じていた。自分の所へ手紙が来ないのは千代の心なのだろう。
  彼は脇の方へ視線を移した。二人から離れた所で、かつての主に捨てられた猫が、暑さのために、筵の日陰の下で伸びて寝ている。その茶褐色の縞模様の上にも、彼は吹き抜ける風を見たように思った。
続きはこちらから。
Copyright © 2014 絆 (久七 龍治) All rights reserved.
by 個人事業者、SOHO、中小企業専門 ホームページ作成サービス