絆

 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
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  目覚めた布団の上で、吹き抜ける風のうなりを聞いた。小型だが雨量の多い台風の接近をラジオは告げていた。十月になって上陸する台風は珍しい。
  仁平はいつもより遅い朝食を摂った後、下駄をつっかけ庭に出た。湿気をおびて体をうつ風は、潮の臭いがした。この強風にも、人々は田圃で働いていた。躊躇っていた心がふっきれ、彼は鍬をかついだ。
  北に向かって吹く風も、背中に当たって渦をまくのか、畑では掘り起こす砂まじりの柔らかい土が目に入って思うように作業が捗らない。
(昼からの仕事は、休むより仕方がないのう……)
  今日中にやり終えなければならないことはないのだ。どす黒い雨雲が低い位置で、空一面を覆いつくしていた。その量感に恐怖さえ感じられる。
(間違いない)
  雲の流れから、彼は台風がこの地方を通過することを読みとった。川口の方から流れてくる雲を追うと、東北をめざして、早いスピードで移動している。雲の動きが、もう少し西に逸れると台風は上陸せず、海上を渡って行く。過去、この地域を通過していった幾多の台風で、彼はその進路を的確に読みとることができた。
  雨雲は山を越すと、いったん下がるように見えた。川を隔てた四百メートルほどの山並の頂きからも雨雲は湧き出ていて、途切れることはなかった。厚くのしかかるような重い雲だった。仁平は自然の織りなしに時を忘れていた。
  う、うう〜ん
  川口の方を見ながら、何分ぐらい佇んでいたろう。強風のためか、遠くの物音も変形して身近に感じられた。ああ、今のは気のせいだったなと思いかけた時、再び同じものを聞いた。
  う、うう〜ん
  今度ははっきりと聞こえた。自分の身近で、しかも足許の方からである。
  下を見ると、傍らに佇んでいたちょびが、体を緊張させている。耳をぴんと立て、背筋を伸ばし、彼の見ている方角を凝視している。仕草が尋常ではない。人間には読みとれない動物の嗅覚に一瞬怯えた。
  彼は、ちょびと同じ川口の方へと再び目をやった。
  う、うう〜ん
  三度目にして、仁平の注意を引こうとするちょびの鳴き声だと判った。鼠をくわえて、見せに来て鳴く声とよく似ている。
「ちょび、どうした」
  思わずごくりと息をのんだ。見上げるちょびの目が、仁平に何かを訴えているようにも見える。
  うう〜ん、うう〜ん
  ついて来いというのだろうか。鳴きながら後ろを振り返ると、ちょびは畑の中を走りだした。家に帰る時以外、猫は彼の前を行くことはなかった。今までとは違う行動。仁平もちょびを追って走りだした。
  うう〜ん、うう〜ん
  ちょびは幾度も振り返り、仁平がついて来てくることを確認する。
(何かあるな……)
  その行動の異様さに、仁平は夢中で後を追いだした。
  百メートルも行くと安心したのか、ちょびは二度と振り向くことはなかった。
  老人の歩調に合せて猫は走って行く。
  川原を横切って鉄橋がかかっていた。
(ああ、ここは……)
  鉄橋の下を潜り抜けた。
線路に沿って川の方へと少し下った時、四か月前の出来事が鮮やかに蘇ってきた。弁当の空箱に鼻をくっつけているちょびの姿を見たのは、この場所だった。雌猫の行動範囲の広さに驚きながらも、痩せこけたちょびを抱き上げた過去が思い返された。
  右に折れた。
  猫は憑りつかれたように畑の中を突き進んで行く。強風はあいも変わらず、仁平の体を吹き抜けていた。しかし、彼はもう風など全く感じなかった。
  どんぐりの木立の前まで来て、ちょびは漸く足を止めた。何の目的で植えられたのかも忘れ去られた荒れ果てた木立が、畑の中に場違いのようにある。
(ちょびは、この木立を見ていたのか)
  先ほどのことが脳裏を掠めた。この場所は、彼の畑と川口とを結ぶ一直線上に位置している。
  川口からのぼってくる雨雲を見つめて佇んでいた仁平に、あの時ちょびは何を思っていたのだろう。
  仁平は肩で息をしながら、どんぐりの木立に目をやった。痩せ地に生える伸びきった草木が、強風にあおられ揺れ動いていた。微かに人の通った跡があった。
  う、うう〜ん
  足許で再び呼びかける鳴き声がした。視線が合うと、猫は仁平を見つめたまま、木立の中へと足を向けた。
(…………)
  仁平の体内に寒気が走った。千代の父がどんぐりの小枝を切り落としていた遠い過去が蘇っていた。視野が闇となり、仁平は体が沈んでいくような眩暈を覚えた。
  木々が今まで以上に、大きくざわついた。一瞬、竜巻のような突風が吹き抜けたのだろうか。
  目前の木立が再び彼の前に現れた。束の間、息をするのさえ忘れていたようである。仁平の肩が大きく上下した。だが、体の強張りは、どうしようもない。そのくせ頬がぴくぴくと痙攣する。
(かつて小野の背に言い放った台詞が、このような形で解明されようとは……)
  うう〜ん、うう〜ん、うう〜ん
  奥の方まで行ったちょびが、木立の入口に戻って来ていた。
  見上げる猫の目には、必死な思いが漲っている。悲しそうにも見える目である。
  うう〜ん、うう〜ん、うう〜ん
  膨らんだ腹が、鳴き声とともに萎んでいく。そして、また腹を膨らませ、縋りつくように呼びかけてくる。しかし、仁平の足は金縛りにあったように動かなかった。
(きゅうし・りゅうじ)
 
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