絆 (久七 龍治)

 
  絆
 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
 
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
 
≪0≫ ≪1≫ ≪2≫ ≪3≫
≪4≫ ≪5≫ ≪6≫ ≪7≫
 

≪2≫

  何の手がかりも見いだせないまま、日が過ぎていった。農繁期を過ぎているとはいえ、村人はいつまでも彼女のことに関わっているわけにはいかない。
  捜索の最終日には、遠慮して千代に触れなかった男達も、蓄積してきた疲労から喬夫婦の日常の薄情さを口に出した。
「あいつが、追いだしたようなものよ。あれでも兄貴なんだからの」
  たった一人で一週間かけて田植えをした千代を知らぬ者はいない。
「いや、女房もいけないよ。一つ屋根の下に女が二人いては、自由にならないやろ。あの女は、千代さんにきつくあたったと思うよ」
「水商売風の女がどうして、こんな田舎にと思うよ」
  いやと言って若い男が立ちあがった。喬と同級の男だった。
「結局、彼らも戦争の犠牲者といえるよ。あれだけ百姓を嫌っていた喬さんや。二度と田舎には帰るつもりはなかったやろに。空襲で職場も家も失っては、ここに帰ってくる以外仕方あるまい」
──無知な人間ほど、善人でいられる。
  仁平は口をはさむことが憚られた。彼は立ちあがると、少し皆から離れた所へ移動した。そうすることで、雑念からも遠ざかる気がした。しばらくして、喬がやって来た。用を足してきた為に最後に戻って来た。喬は仁平が座っている前方の木の下に座り、視線を避けるようにすぐに下を向いた。蒸し暑い気温も、野良仕事に慣れた体では何ともないが、喬だけがベットリ背中に汗をかいている。
(すべて、あんたの思惑通りじゃないか)
  仁平はその背に向かって、自己だけの世界で築きあげた憎悪の言葉を投げつけていた。
  千代の捜索は夕方を待たずに打ち切られた。仁平は後ろ髪ひかれる思いで、仲間の一番後ろから帰路についた。下山するにつれて、千代から遠ざかっていく気持ちをどうしようもなかった。もはや彼女の生を信じていたわけではない。千代の魂が、この山の頂きにとどまって、自分を見ているような錯覚にとらわれた。やり残したという気持ちはなかった。山は三日も捜索すれば、充分すぎる狭い面積なのだ。
  日没迄に間があった。家に帰ると、仁平は鍬を担ぎ畑に向かった。川の流れに逆行するように土手を歩いた。右手の川原に五人ほどの釣り人が見えた。糠団子を餌にボラが食いついて来るのを気長に待っている連中だ。ボラは海水が川へと流れ込む満潮時によく釣れた。だが漁業で生活する者がいなくなった海の近くでは、ボラもあまり釣れないらしい。
(あれはちょびじゃないか)
  二百メートル前方に、鉄橋が堤防を横切って走っていた。猫はその鉄橋の下にいる。だが、ちょびにしては毛並みが白っぽく、全体が明るく見えた。千代の家や畑からもかなり離れている。雌猫の行動範囲からも遠すぎる。
  野良猫をちょびと見間違えた自分をおかしく思いながら鉄橋に近づいた。いつも見慣れた縞模様がはっきり見えた。遠目に新聞紙と見えたのは、汽車から投げ捨てられた弁当の空箱だった。ちょびはその空箱の臭いを嗅いでいた。浮き出た背骨が、薄汚れ光沢を失った毛の上からも露に見えた。なんという変わりようだろう。納屋の上で喬に牙をむいていたちょびが思い返された。魚を盗んだのはどちらが悪かったのだろう。
猫 「ちょび」
  仁平は立ち止まり、いたたまれない思いで猫の名を呼んだ。
  ちょびは警戒の表情で堤防を振り仰いだ。仁平と目が合い、彼の優しい眼差しを見ても、表情は変わらなかった。
(逃げはしないだろうか)
  全てのものを拒絶しているようにも見える。しかし、このまま立ち去ることはできなかった。仁平は再びちょびの名を呼んでコッコッと舌を鳴らした。
  近づくにしたがって、体を地面につけ、猫は身を固くした。威嚇のような、低い唸り声が聞こえた。五メートル程の距離が三倍にも感じられる。少しずつ、そろそろと近づいてみる。しかし、逃げないのはどうしてか。
  やっと手の触れる所まで来た。何とか心許されたらしい。仁平は頭をさすろうとした手を、咄嗟に顎の下に置きかえた。引きつったように固くなっている喉を続けて撫でてみる。唸りは少しずつおさまっていった。
  連れ帰った仁平は、帰巣本能のある猫をしばることはしなかった。愛情をそそいでくれた主を見失い、心に生じた空洞を埋めるには、たとえ餌がなくても今まで暮らした家の方がよいかもしれない。故郷を懐かしむ気持ちは猫にあっても不思議ではなかった。
  蒸し暑い夜、仁平は縁側に座り、団扇を使った。開けっぱなしの窓からは、微風さえ入らなかった。雨期の終った空に、上弦の月が出ていた。庭の樫の葉が月光に反射して、物悲しく見える。万葉の時代の人々はこういう時、恋を詠ったのだろう。千代が想い出された。突然姿を消した彼女を想う時、幼い頃から見て来た姿より、「おじさん、もう終りましょう」と声をかけてくれた最後の夕方がいつも浮かんできた。
  傍に寄り添い、庭を見ているちょびが、千代以上に自分に懐いているとは思えなかった。猫は人よりも家につくというが、仁平から去って行くことはなかった。畑に出るときは、いつも彼の後ろについて来た。野良仕事の合間には、岸に寝そべったり、その周辺をうろついて、虫を追ったり、草の臭いを嗅いだりした。
  家路を辿る時、堤防の上まで来ると、ちょびの葛藤がわかった。走っては振り返りながら仁平の前を歩く動作が、堤防の上でぴたりと止まる。川にさかのぼるように行けば千代の家である。仁平の家は川下にあった。今まで帰っていた方角とは、正反対の道を歩く仁平を、ちょびは立ち止まったまま暫く見つめていた。猫との間隔が四十メートルほどになると、彼は振り返りちょびの名を呼んでみる。猫は猛スピードで走り寄って来るのだった。
(何故、千代の家に戻らないのか……)
  知能の低い猫でも、一か月やそこらで、あれだけ懐いていた千代のことを忘れることはないだろう。いつ自分の許に帰って来るかも知れない千代を待つ場所は、共に暮らした家以外にあるまい。千代が帰らないことを知っているのだろうか。ちょびの行動を見ていると、単なる推測が確信に思えてくる。しかし、言葉の通じない猫が、そこに至った経緯が仁平には判らなかった。
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