絆 (久七 龍治)

 
  絆
 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
 
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
 
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≪3≫

  太陽の照りつける夏になった。仁平は朝五時前から仕事に出かけた。涼しい間に仕事をこなし、日中は家の内で過ごした。暑さをはね返す体力は、歳とともに衰えている。
  千代のことは、村の人達の口にあまりのぼらなくなった。死亡していたら初盆であるが、生死不明の彼女に、当然喬は何もやらないらしい。
(千代にとって、自分は一体何だったのだろう)
  喬の非情も、兄嫁の我が儘も、目に涙を浮かべて千代が話してくれたものだ。しかし、結局千代は誰一人として、受け入れることをしなかったのだろうか。友達のいない千代が、唯一心許せる人間は自分だとの思いあがりは、自惚れであったというのだろうか。千代は田植えを手伝ってやろうとした仁平に 「一人でやります」と、毅然とした態度で拒んだ。東山に姿を消した時も、ひとことの相談もなかった。家を出るほどの苦しみを抱えながら、そんな素振りは微塵も見せなかった。
  宵になると、彼は松明を持って外に出た。マッチを擦り、死者に対する迎え火をたきつけた。ちょびが傍に来て座り、チョロチョロと燃える火をじっと見ていた。赤ら顔で、腰を下ろしたまま見上げると、門前の向こうに家並を通して、千代が姿を消したという東山が、黒い影となって迫って来た。
(いや、あの人はそんなに強くはない)
  涙を浮かべていた千代が思い返された。
――おじさん、私はここが一番いいの
  畑の地面を鍬で軽く叩いていた姿が蘇って来た。考えてみれば、彼女が可愛いがっていた猫を捨ててまで、家を出る理由など何もなかった。
  盆の十四日と十五日の二日間は、何もすることがなかった。村の人達も正月とこの日は仕事を休む。仁平は一日ラジオを聞きながら、縁に面した畳の上で寝そべっていた。この部屋は、稲の上を渡って来た南風がよく流れ込んだ。
「こんにちは……、こんにちは」
  来客があったのは二時頃だった。来意をつげる声か、ラジオなのか判りかねた。寝たつもりはなかったが、うとうとしたらしい。傍で寝ているちょびが、体を起こして耳を立て、緊張している姿がぼやっとした感覚でとらえられた。
「ご迷惑ではないでしょうかの」
  出て見ると、警察官の小野だった。ステテコ一枚の姿を仁平は詫びた。
「いや、暑いですからお気遣いなく」
  小野はバンドに吊り下げた手拭いで額の汗を拭った。歳のわりには禿げあがった頭から、汗がふきでて筋となって流れていた。
「こちらの方が風が入りますのや」
  寝ていた部屋に招き入れた。今迄当てていた枕がそのまま残っている。足で蹴るようにして障子の脇に寄せた。
「千代さんのことを、少しお訊きしたいと思いましての……」
  座るなり、客はおだやかな口調で切り出した。
「千代さんのこと?」
  近頃では、計画的な家出だったのだろうと言う噂まで流れていた。誰が言いだしたか分からないが、ふた駅向こうから汽車に乗るのを見たらしいとささやかれていた。特徴のある歩き方が面識のない者にさえ、記憶に残るらしい。
「その後、彼女の消息がつかめたのでしょうかの」
「いいえ、何の手がかりもないままですわ」
「じゃ、何か?」
  仁平は首をかしげ、眉をしかめた。一呼吸おくように、小野は久し振りの来客に怖じ気づいているちょびに視線を移していた。
「あれは千代さんが飼っていた猫です。彼女といつも一緒でしたわ。喬さんにはかわいがられていなかったらしくて、千代さんが居なくなったもんで、わしの家に来てますのや」
  汽車から投げ捨てられた弁当箱に鼻をつけていたわりには、ちょびは与えた餌を食べなかった。衰弱しきった体は、好物の魚さえ受けつけなかった。嫌がる猫の口を無理やりあけ、生卵を流し込んだ。吐き出そうとしながらも、仁平の手で固定された顎に生卵はうまく滑りこんだ。体力は少しずつ回復した。
絆 「いつから、こちらの方にいるのです?」
「彼女がいなくなって、十日程した頃からですわ」
「ほう、何故我家に帰らないのやろのう」
  小野は仁平の顔に再び視線を移した。
「ええ、わしもそこの所がひっかかっていますのや。でも、この頃は少し考えを変えざるをえなくなりましたよ」
「と、いいますと……」
「この猫が、二股かけているのではと思えだしたのですわ。暑苦しさに目覚めると、傍に寝ていた筈のあれがいなくなっていますのや。五日程続けてそうでしたわ」
  トイレに行くちょびの為に、縁側の障子を少し開けて寝る。その隙間から出て、ちょびは明け方戻って来た。少し毛に泥がついていた。彼は濡れ雑巾で拭いてやった。人に懐かないだけある。汚れ方からして、道ではなく、畑の中を歩いているようだ。
「いやいや」小野は右手を横に振りながら笑った。「夜向こうに行くぐらいなら、ここには来ませんやろうの。恋かもしれませんよ」
  恋?  この家に来て、ちょびにそれらしき行動があったろうか。年齢を気にして心のうちを打ち明けられなかった自分とは違い、本能のまま動物はもっと自由に行動するだろう。
「ところで、千代さんのことなんですが、自殺したとか、兄妹の仲がわるかったとか、都会に出て働いているとか、色々いわれていますけど、どう思われますか」
  精悍な顔つきの小野が、一服しただけで煙管の火を消した。どうやら、訪ねて来た核心に触れて来たようだ。
「どうって?」
  と、とぼけたが、心は俄かに波打って来た。ずっと思い詰めていたことである。話すにはいい機会かもしれない。小野なら口に出せない叫びを真摯に聞いてくれるに違いない。
  仁平の推量は、喬に手錠をかけることである。迂闊なことは口に出せないでいた。だが小野なら職業上、決して口外はしないだろう。いつまでも口を閉ざしているのは苦しかった。
  仁平は畳に片手をつくと、胡坐を組んだままで一歩にじり寄った。
「わしは、あの喬が怪しいと思うのですわ」
  殺意などなくとも、足の悪い千代なら、突き飛ばされただけでもバランスを崩し、打ち所によっては死にいたることもあるだろう。
  小野はべつだん驚きもしなかった。それどころか肯定するかのように頭を二、三度軽く動かした。仁平は勇気づけられ、さらに言葉をつづけた。
「だって、千代さんが家を出なければならない理由など、何一つありませんわよ。彼女がいて窮屈なのは喬さん夫婦でしょう。あの人は都会で生活していた人です。戦争で住まいをやられ、仕事もなくなって仕方なく故郷に帰って来た人です。お母さんは千代さんの体を考え、喬さんの勝手にならないようにと、田圃も家も千代さん名義にしたと聞いています。故郷には二度と還らないと出た喬さんには、いくらかの金を支払って解決したそうですわ。でも、戦争で金の値打ちはなくなったでしょう。妹を思い遣らないということは、喬さんの性格だとは思うんですが、こういうことも関係あるんじゃないかとわしには思えるんですわ」
  母親がなくなってから十年が経っていた。親であるならば子供の性格は知り抜いていたに違いない。よかれと思ったことが、自分の死後兄妹の喧嘩の原因になろうとは……。
「うまくいってなかったらしいですの、あの兄妹は」
「ええ、田植えなんかも千代さん一人で植えていましたわ。どんなに忙しくしていようが、手つだってやらないんですよ」
「彼は代用教員をやっているからの」
「代用教員といっても、そう口がかかるわけじゃないですよ。学歴のある人は日雇人夫などやりませんやろ。結構ブラブラしていることが、おおかった。でも食べるには困らないわの、彼女の作ったものがあるんですから。当初、わしは千代さんは自殺やないかと思いました。でも、小野さん、そんな筈ないでしょう。彼女の最後の日、わしは千代さんと畑で一緒でしたのや。畑が隣どうしで、岸に座ってよく話をしたものですわ。でもあの日の彼女の様子から、自殺など微塵も感じられなかったですわ。彼女は正直な人間ですよ。喬さんの話をしてくれる時は、涙を浮かべて語ったものです。そんな人間が、自分の最後の日に他人に気付かれないで、その日一日過せるやろうかの。又、千代さんは都会に出たともいわれています。でもあの人は、身体を気にしていて、幼い頃から自分から進んで人に交わっていくようなことはなかったわの。都会に出て行くなんて、わしには考えられませんのや」
  しかし、日によっては都会に出た千代を想像しないでもなかった。去って行った者が手がけた大根の葉の揺らめきを見つめていると、侘しさが込み上げてきた。
(彼女は、わしに好悪の感情も抱かなかったというのか……)
  仁平は、畦に座ったまましばらく動けないでいた。
  確証のないまま彷徨していた心、或いは心の奥にひた隠しにしていたものを、言葉として吐き出してしまった。小野とは、昵懇の仲ではなく、顔を合わせれば挨拶するぐらいである。相手はただの警察官に過ぎない。推量が違っていたら村八分にもなりかねないだろう。だが仁平に後悔はなかった。
「警察の人もおかしく思われているのでしょう?」
  顔を覗き込むと、頬が引きつり、小野の口許に笑みが浮かんだ。
「残念ながら疑惑だけではの……」
  力ない笑いだった。
  小野は、肯定も否定もしないまま、一時間ほどで腰をあげた。仁平は玄関まで送りに出た。靴ベラのない家では、指を使って靴を履かねばならなかった。大きな背中が座敷と同じ高さになった時、仁平はその背に向かって言い放った。
「疑惑だけで動けないのなら小野さん、わしがその証拠をあげてみせますよ」
  何の意向も示さない態度に、腹立たしさと焦燥を感じていた。
「仁平さん、あんたの気持ちは痛いほどよく解ります。でも軽はずみなことはしないことですよ。時が経てば犯人ならばきっと尻尾を出すときがきますわ」
  向き直った小野の充血した目が笑っているように見えた。しかし、何故彼はここに来たのだろう。意味ありげに見える笑顔は、自分の心の照応だろうか……。
「一軒いっけん訪ねて回るのも、大変ですわの」
  仁平は無頓着を装って聞いてみる。
「いや、いや」
  小野は右手を横に振り、白い歯を見せて笑った。
「わしは、仁平さんがあの洞穴で言ったことが気にかかっていましたのや。大抵は『千代さん』と呼びかけるだけでしょう」
  やはり警察官はするどい。彼は迂闊にもあの時「千代さん、仁平だ」と言ってしまったのだ。
  小野が門を出て、右に曲がったのを見届けてから、慌てて下駄をつっかけ外に出た。
  仁平は門柱の脇から首だけを突きだした。
  何処の家にも寄らずに小野は自転車で遠ざかって行く。
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