絆 (久七 龍治)

 
  絆
 
夜、仁平の家を抜け出した猫はどこに行っているのでしょう?
 
猫の行き先が推理できた人には、この物語はおもしろいでしょう。
久七 龍治
 
≪0≫ ≪1≫ ≪2≫ ≪3≫
≪4≫ ≪5≫ ≪6≫ ≪7≫
 

≪1≫

  千代の家は、建てられてから百年も経つ古い家だった。母屋の右手に、西向きの納屋がある。庭には夏草が伸び始めていた。昨日の雨で、どっぷり浸み込んだ土中の水分を吸い上げて、紫陽花が美しく咲きほこっている。
  申し合わせた時間よりも早く、男ばかり二十人ほどが集まっていた。手にした鎌や縄に悲しい現実が窺える。男達の話題は農作業のことばかりだった。千代の事にわざと触れないようにしている。思い遣りに思えた。黙って家を出た原因を残った者に感じるのは誰しも同じだろう。
  仁平は門の入り口から人の輪の中に行こうとして、ふと屋根の上から見下ろしているちょびに気づいた。頻りと周りを気にし、落ち着きがない。何かに苛立っているようにも見える。兄夫婦にも懐かない猫が、見慣れない人々に興奮しているのだろう。だが、仁平は落ち着きを失った姿よりも、一匹で屋根の上にいるちょびが不思議だった。猫は千代といつも一緒で、片時もはなれなかった。彼女の家出に気付かないほど寝入っていたのだろうか……。
猫   仁平は、ちょびの方に近づいて名を呼んでみた。
「ちょび、おいで」
  右手を突き出して、コッコッと舌をならした。畑で体をなでてやる時にした愛情表現の一つだった。猫はこのコッコッの響きだけで目を細め、喉を鳴らした。
「ちょび、おいで」
  納屋の屋根に向かって、再び名を呼び、口の中で同じことを繰り返した。だが、ちょびは敵意を含んだ目で一瞥しただけである。いつもの野良着と服装が違っているが、仁平を見わけられない筈はないだろう。
「皆さん、本当にご迷惑をおかけしますが、一つ宜しくお願いします」
  約束の時間きっかりに、玄関が開いた。伸びた顎鬚に落ち込んだ目。憔悴しきった兄の喬の表情は、まともに睡眠もとれなかったようだ。覚悟していたであろうが、人々の物言わぬ非難の眼差しを一斉に浴びて、目線が一瞬宙を泳いだ。一緒に出て、挨拶ぐらいしてもいいはずの妻は、顔を出そうともしない。物音一つしない母屋に人の気配は感じられないが、避けては通れない道である。非常識な妻の態度に、仁平は畑で涙を浮かべていた千代を思い出した。彼女はひとしきり話し終えて 「私は、ここが一番いいの」と言うと、鍬で地面を叩いたものだった。その後力なく笑っていた彼女の寂しい横顔が、仁平の心から離れない。
「うぅーうぅー」
  突然意味の分からない言葉に、人々は面喰った。「あっ」と、一人の男が屋根を指さした。納屋の方を向いている男だった。振り返ると、屋根瓦の上でちょびが、目をつりあげ、耳を伏せて体中の毛を逆立てている。
「わぁー、すごい猫じゃ」
  一人が叫ぶと低い笑い声が起こった。敵意に満ちた猫の眼差しは、喬に向けられていた。今にも飛びかかりそうな気迫が小さな体に漲っている。懐かないと聞いていたが、狂暴性について千代は一言も話さなかった。一体どうしたというのだ。状況を呑み込めないまま、仁平は喬とちょびを交互に見た。
「くそう」
  喬は納屋に立てかけてあったおこを掴んだ。高く振り挙げ、屋根に向かって投げつけた。二度目の攻撃は、牙を剥いたまま、立ち向かった猫の尻尾に当たった。身の危険を感じたのだろう。ちょびは屋根の反対側に姿を隠した。しかし、うぅー、うぅーと、すさまじい唸り声は途切れない。相手の姿が見えなくなっても、ちょびの怒りは収まらないらしい。
「すごい猫ですね、また何か」
  喬は引きつった顔面に、笑顔を浮かべた。
「いや、見苦しいところをお見せしました。なに昨夜食卓の魚を一つ盗んだのです。思い切りたたかれたことを根にもっているのでしょう」
  冷静な声でその場をとり繕った。二十年の都会生活は、彼から故郷の訛りを消していた。
「じゃ、あのやろう、悪い事をしたとは思っていないのじゃな」
「たいした猫じゃのう、飼主に牙をむくとは……」
  哄笑が起こった。千代が出て三日目である。この間、ちょびは何も口にできなかったと仁平は推測した。夕陽の中を帰って行く千代とちょびの姿を見ているだけに、主人を失って急速に荒んでいく心がいたまれた。
「そろそろ出掛けましょうかの」
  仁平は村の衆を促し、その先頭に立った。
  六月も後二日を残すだけとなった。水田では、植えて間もない稲が光をはじき、微風にサラサラと波打っていた。
「兄嫁は遊んでいても、田の中に入らないの」
  猫の手も借りたい農繁期の最中に、家族の援助も得られないまま、千代は一週間近くかけて苗を植えていた。気丈に振る舞おうとすればするほど、暖かい炉端にいて、暗夜の荒野を歩いている千代を見るような気がした。
  この季節に東山の上空は、一羽の烏も飛んでいなかった。烏は死臭に機敏な鳥である。歩きながら仁平は安堵を感じていた。先頭を行く彼の足取りが無意識に速まっている。
「おぅーい、もう少しゆっくり歩けよ」
  後ろから声がかかった。仁平は立ち止まって、皆が近づくのを待った。喬は集団の一番後ろを歩いていた。何をぐずぐすしているのだろう。若者が老人の足に負けている。喬は妹を心配して先頭に立ってもいい立場にいるはずだ。村人に援助を仰いだことにも腹がたっていた。彼女の家出に関わった家族だけで捜し出し、謝意を述べた方が、千代だって出てきやすいだろう。仁平の吐息には怨念が込められている。が、同時にこの瞬間まで意識することもなかった自身の軽薄さにも気づいた。
(おまえは、最も親しい彼女のはなし相手ではなかったのか……)
  申し合わせた時刻にやって来て、村人と行動を共にしている自分。仁平は苦い後悔に襲われた。今さら集まった人達を差し置くわけにはいかない。迂闊だった自身の行動が悔まれた。
  だが、一刻も早く見つけようと、皆の先頭を急ぎ足で東山に向かって行く仁平の矛盾した心のありようは、一体なんだったろう。彼は千代が生きていないように思われて仕方なかった。
  千代の姿は東山の入口で老婆に目撃されたのが最後であった。「本当やな」と念を押され、「月あかりだけで顔を見たのやないけど、あの歩き方は千代さん独特のもんで、間違いない」と老婆は断言した。八十歳を過ぎている人で、耳が遠いのか、音を拾うように手を耳に当てたまま、老婆は大きな声で言いきった。
  千代の姿を見たという東山の入口に立つと、狂いなく時を刻む秒針の音が聞こえた。仁平の心の秒針である。胸が波打って来た。消息を絶ってから二日半。もはや取り返しのきかない時間に思われた。彼女もかつて、失踪の後になされた村の対応を忘れてはいないだろう。一週間近くかけて、村人は付近を捜索したものだ。百姓仕事に精を出しながら、絶えず兄夫婦に遠慮していたが、農業に喜びを見出す日々の中に再び身をおくようになっても、向けられる村人の視線に気丈に耐えなければならないのだ。それは兄夫婦との軋轢よりも、負担になるかも知れない。
(この道が、千代に通じている……)
  仁平は、山の勾配を先頭を切ったまま登り続けた。東山は、戦争の傷跡をいたる所に残していた。山の向こうにある港町の余波でか、空襲に怯えて山の斜面に掘った穴が、終戦から五年経った今も所々に、そのままポッカリ口を開けている。仁平は二メートルほどの奥行きのない穴を横目でやり過ごしながら、山頂の方へと進んで行った。
  ある穴の前で立ち止まった。鬱蒼と繁った木立の間に、大人が背中を丸めて歩けるほどの空間が、ほっかり口を開けている。仁平はその入口に立って異臭のないことに安堵した。赤土の粘土質の土壌に支柱もないまま、掘り進んだものだが、内部は六メートルほど先で右に折れ、その奥に三畳ほどの空間が広がっている。空間の上部は、平たい岩で覆われていた。仁平がもの心ついた頃からある穴で、いつの時代にできたのか分からない古いものであった。
  雨期と昨日の豪雨の水を含み、天井の突出した部分から落ちる滴が大きな水たまりをつくっていた。
「わしが見て来る」
  仁平が皆を振り返った。あれだけ降ったのだから、いつ崩れてもおかしくはないのだ。誰しも入るのが躊躇われる。
  仁平は体の向きを変えた。土砂崩れなど何も怖くない。彼は千代の姿を誰にも見られたくなかった。
「気をつけろ。ころぶんじゃないぞ」
  肩越しに声がかかった。それに応えて二、三度軽く頷いた。
  仁平は三畳ほどの入口まで来て立ち止まった。
「千代さん、仁平だ」
  奥の方で水滴の落ちる音がしていた。入口から流れこんだ微かな光をとらえ、ぼんやり反射している水たまりだけが、闇になれていない目にうっすらと見える。
「千代さん……」
  彼はもう一度呼びかけた。それから、奥の方へ足を踏み入れ、壁に沿って一周した。再び元の場所に来て見つめると、闇になれ全体が判った。
  ずぶぬれになって外に出て来た仁平に人々は絶望を覚えた。ここだけが千代が潜んでいると思われた唯一の場所だった。
「すみませんでした」
  喬が仁平の側に寄って礼を言った。
「体を横にすることなど、とても無理だわ」
  仁平は頭にかかった水滴を拭った。彼の記憶にある穴は夏の季節のものだった。
  一行は山道を下って海に出た。握りこぶしよりも大きな石に足をとられたが、下の方に行くにしたがって石は小さくなり、やがては砂利となって水際へと続いていた。
  昨日の雨を呑み込んで、紺碧の海は濁って荒れていた。広大な海面に船一つ浮かんでいなかった。十五年ほど前までは、曳網で賑わったが、年々減る水揚げは、村人を陸へとかりたてていった。現在漁業を糧とする者は一人もいない。
  男達は岩場で、普段よりも一時間遅く弁当を広げた。喬を避けるように、皆が離れた位置に腰を下ろしたために、ぽつんと一人いる姿は孤独に見えた。男達はやはり千代の事に何も触れずに、とりとめのない話に気まずさを紛らわせた。
  仁平は握り飯をほおばりながら、空を仰いだ。薄い灰色の雲が低空で空全体を覆いきって、その向こうにある輝く青さを隠していた。彼の心中で、どうしても消化できないものが、再び喉もとに突き上げてきた。仁平はその疑問を喬につきつけてやりたい衝動にかられた。あの夕陽の中で、帰路を辿っていた千代とちょびは、一体なんだったのだろう。老婆の言葉が本当なら、あれから二時間ほどで、彼女は東山に向かったことになる。一体何があったというのだ。何時も一緒に行動しているちょびが、今朝なぜあの屋根の上にいたのだろう。千代は恐らく泣きながら家を出たであろうし、自分をかわいがってくれる主人の異変に猫は気づき後を追ったであろう。
  食事がすむと、仁平は皆から離れて、岩場の方へと歩いて行った。波に侵食され、滑らかになった岩肌に牡蠣がへばりついている。岩群の先端は緩やかなカーブを描きながら、海へと落ち込んでいた。
  水際から十メートルも進めば、大人でも背が立たない。打ち寄せては砕け散る荒波は、この岩場によく調和していた。障害物もないまま、波は勢いよく岩肌にぶちあたり、白い飛沫の花を咲かせた。
  仁平は岩群の先端まで来て、足を止め下を見た。複雑に入りくんだ岩々の隙間をぬって、海水が轟々と音をたて、揺れ動いていた。
(ここから飛び込めば命はないな)
  沖には、黒潮がかなりの速度で流れている。その流れに運ばれていけば、醜態を曝すことなど心配しなくてよい。死ぬにはいい場所かも知れない。猫は水を嫌う。付いて来られるのは、この岩場までなのだ。
  岩肌に砕け散る飛沫が、仁平にかかるようになった。長く尾を引くうねりが地下足袋をサッと濡らしていった。少しずつ、潮が近づいて来ている。満ち潮だった。
(せめて骨でも拾ってやりたい)
  突然、大きな波が打ち寄せ、膝下まで濡らしてしまった。この時、仁平は千代と一つになれた自分を悟った。
「わしが、あんたの恨みをはらしてやるよ」
  彼は海に向かって、満身の怒りを込め、声にはならない叫びをあげた。
「おぅーい、そろそろ行くぞ」
  背後からの声に我に返った。急に波の音が耳障りなほど大きく聞こえた。引き返す足が機敏に運ばなかった。何分ぐらいここで一人でいたろう。握り飯をほおばった後にやってきたが、時の経過が判らなかった。
  先頭は山を目ざして歩き始めていた。一番後ろから皆について歩きながら、仁平は今一度、岩群の先端を振り返った。子供の頃より親しんできた岩の上を濁った波が勢いよく引いて行くところだった。山に向かう行為が徒労のように思えてならなかった。
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